恋とはなにか、愛とはなにか
家族の絆と愛情を知らなかった男は、3人の嫁によりそれを知りました。
誰かを殺す戦いしか知らなかった男は、鬼殺隊に入り守る戦いを知りました。
知らぬことばかりの人生が彩鮮やかに豊かになっていくというのに、唯一知らない感情があることを知ったのは、男が知った感情全てを誰からも与えられず育った小さな子供からでした。なにも持たない子供は惜しみなく全てを人に与えようとする。その子供に芽生えたそれが、男が最後に知る人としての感情。
宇髄さん誕生日おめでとうございます。今宵は善逸と共にお過ごしください。
宇髄天元誕生祭2019
ブクマ、タグやコメントありがとうございます。励みになります。
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十五の年まで、宇髄にとって人の生という物は無味無臭の酷く味気ないものだった。
親兄弟。血の繋がりを持つ、本来ならば尊い筈のものがなにより一番意味のないものに思えた。このままでいいのだろうか。
成長と共に湧き出る心の疑問にいよいよ決定的な刃が突き付けられたのが十五の年だった。
一族の掟により、三人の嫁を父親に宛がわれた。
雛鶴、まきを、須磨。父親が選んだくノ一は、実に分かりやすい人選だった。
一族の中で婚姻を繰り返してきたため、近頃の里では血が濃すぎる故に死産が続いており、仮に無事に出産できたとしても休む暇もなく子供を産まされることで母体が潰れることは珍しくなかった。そのため、父親が選んだのは宇髄の家から一番血が遠い女だった。
雛鶴は頭脳と容姿。まきをは体格の良さ。須磨は多産に耐えられる家系から選ばれた三人だった。
宇髄の兄弟たちは誰も母親が同じではない。顔の知らない祖父が父親にそうして嫁を与えたように、なんの疑いもなく父親も息子が十五を迎えたために嫁を選んだ。そこには息子への一欠けらの配慮も愛情もなく、忍びのためにひとりでも多くの子供を産ませろという義務感のみだった。
あまりにも宇髄の家のことしか考えていない人選に、幼きころより知っている彼女たちがなんの疑問を持たず、むしろ宇髄家の息子の嫁になれたことを光栄だとすら思っている様を見て哀れでしかたなかった。
引き合わされた時に、彼女たちが抗うことなく「天元さま、よろしくお願いします」と頭を垂れたことで心は決まった。
抜け忍は一生命を狙われる。それを承知で、嫁にしたばかりの三人を連れ忌み嫌う忍びの里を抜け出した。
鬼殺隊に入り、柱まで上り詰め、雛鶴がいつか言っていた夢の暮しを手に入れるために、ひたすら宇髄は走り続けた。
お日様の下を知らない嫁たちのために、穏やかな暮らしを自分が叶えてやる。居場所を作り、笑える日々を作ってやる。
最初は戸惑うことも多かったであろうに、宇髄が選んだ道を嫁たちはなにも言わず着いてきてくれた。
喜怒哀楽は任務の時のみにしか使えなくなっていた嫁たちの顔に、ようやくそれらの人としてあるのが当たり前の感情が戻ってきたときに、宇髄は自分の選択は間違っていなかったのだと初めて思えたのかもしれない。
二十三になり、音柱としての地位を手に入れた宇髄の顔にはあの頃の子供の面影は残っておらず、ひとりの青年として十分魅力的な男へと成長していた。
その間に、抜け出した里が滅んだこと。父の首が晒されたこと。弟の行方が分からないこと。さまざまな情報が耳に入っていたが胸は痛みを訴えることなく、カビの生えた時代遅れの忍者がとうとう自分ひとりになったのかと思うとなんとも言えない気分にさせられた。
嫁たちは、くノ一時代に自分たちの命の軽さを徹底的に教え込まれていたため、宇髄が大切にしてくれる年月でようやく誰もが当然に与えられている人としての権利。人権を理解してくれるようになっていた。
世間的には嫁だと言ってはいるが、宇髄にとって彼女たちはもはや家族だった。血の繋がりはない夫婦という家族の始まりの単位ではない。血縁の意味のなさを誰よりも知っている宇髄だからこそ、自分を信じ側にいてくれる彼女たちは誰よりも大切な家族になった。
自分の命よりも優先されるべき大切な家族。労り愛しみ守る対象。幸せを願わずにはいられない、大切な三人。これ以上の存在が現れる日は永遠に来ないと、そう思っていた。
あの日、眩しさに瞳を細める金色に出会うまでは。
「あのクソガキ、また俺の文を無視してやがるな」
朝送り出した鎹烏が文を着けたまま戻ったことに宇髄の機嫌が急降下する。それをたまたま茶を持って来た雛鶴が困った顔で受け止め、さてどうしたものかと縁側で顔を顰めている旦那の隣に腰を下ろした。
「善逸くんだって任務があるんですから、天元さまの都合でばかりは動けませんよ」
「この俺様がわざわざ文を出してるのにか?」
いつもは大層頼りになる宇髄が、なぜかあの子供のことになると一気に年相応以下にまでなるのか本人よりも先に気が付いている雛鶴は面白くてたまらない。それを言えばますます機嫌を損ね、次に善逸がやって来たときに彼が弄られるということを知っているため口にも顔にも出さずに窘める。
「優先されるべきは任務の方であることは、元柱の天元さまが一番御存知じゃありませんか」
優しく言われてしまえば、宇髄も面白くなくとも認めるしかなく押し黙る。
「アイツ、ちゃんと飯食ってると思うか?」
宇髄が出した手紙は、飯を食べに来いという実家の母親を知らぬ善逸でも読めば盛大に叫んだであろう内容だった。
読まれなかった手紙を握り潰し、膝の上にて頬杖をついている宇髄の横顔は小さな身体で鬼と戦う善逸への気遣いが見て取れる。
不器用な人だと、自分達に対する優しさの十分の一も素直に善逸には吐き出せない宇髄の心配を払うべく、雛鶴は鎹烏の頭を撫でご苦労様と宇髄の代りに労りの言葉を掛けた。
「今度の任務は不便な土地ではないようですから、藤の家も近くにあるでしょう。万が一長引くことになっても、善逸くんには頼りになる鎹雀が着いてますし」
宇髄が心配することはないと続けようとした雛鶴へ、顔を顰めた美丈夫の首が回される。
「喧嘩ばっかしてんぞ、アイツら」
「気を許しあった信頼の証ですね」
「ふぅん」
頼りになる相棒がいることは善逸にとって喜ばしいことだが、それはそれでどうやら面白くないらしい。宇髄の不機嫌さは治りそうもなく雛鶴はますます楽しそうに宇髄とは真逆に笑みを深める。
「きっと任務が終わったら来てくれますよ」
「どうだか」
「腕を奮って料理作りますし、まきをもお風呂沸かして待ちますよ。須磨だって不器用ながらにお布団干して頑張ってるんですから、天元さまも機嫌を直して善逸くんへ手紙出して下さいね」
「アイツ釣るには、お前らの方が確かに効果的だな」
俺が言っても来やしねぇけどなと、今日の宇髄の機嫌はとうとう晩酌に鬼程酒を飲んでも治ることはなかった。
遊郭での任務が宇髄と善逸を引き会わせた。最初の印象はお互い最悪。しかし窮地を共にしたことにより、その最悪な印象は忘れていないながらも距離は縮まっていた。
宇髄は地味に生きた忍びの反動か、派手を人でも物でも好む。派手であればあるほど面白く、興味を惹かれ手元に置きたくなる。
善逸は、その点宇髄の興味を惹く対象だった。
自分を弱いと思っている善逸が、実は強いこと。
泣いて嫌だと叫ぶくせに、逃げないこと。
怖くて堪らないと震えるくせに、誰かを守る際にはその怖さを微塵もみせないこと。
そしてなにより、宇髄の目を引いたのは善逸の髪色だった。
闇夜に浮かぶ月のような。青空を照らす陽の光のような。秋風に揺れる稲穂の海のような。そんな見事な金色の髪を宇髄はいたく気に入っていた。
善逸の耳がいいことを知ると、音柱の継子として迎えいれたいと真剣に考えるようになった。子供が危なげに任務をこなすことを心配するよりも、手元に置き死なない術を身に付けさせればいいと、気に入っている理由をあまり深く考えずに心配だからと勝手にそう結論付け善逸を継子にしようと心に決めた。
それまでの宇髄は継子を取る事など一度も考えたことがなかった。音の呼吸のことを継承すべき呼吸ではないと思っていたからだ。
音の呼吸は自分自身が強くなるために宇髄自ら編み出した呼吸。忍びで見つけた技と耳の良さ、恵まれた体格で派手に生き抜くために考えた呼吸だ。使えるのはおそらく自分だけだろうと宇髄は考えていたため、継子など必要ないと思っていた。
だが善逸と出会い、宇髄の耳とは比べ物にならない良い耳を持っていることを知ると一代で終わっても惜しくないと思っていたそれを善逸に継いで欲しいと思うようになった。
男前など滅びればいいと、怖いくせに宇髄に毎度啖呵を切る善逸の威勢の良さも気に入っていた宇髄は、鰻と甘味という善逸には大変効果的な二大巨頭の餌で根気よく釣り警戒を解いたころにその話しを切り出した。
揶揄われていると最初は疑っていた善逸も、宇髄が今まで見せることのなかった真剣な顔と声に喚いていた口を閉ざし目を泳がせた。
耳の良い善逸は、宇髄の本気の音をちゃんと拾っていた。ここで逃げるのは卑怯者のすることだと、怖いくせに善逸は足を踏ん張り耐えてくれた。
「あのね、宇髄さん」
善逸は酷く臆病だ。
それは鬼に対してではなく、自分に自信がないことで心を軋ませた故の臆病さだった。自己肯定の低さだけはどれだけ宇髄が否定しても治る気配が見えない。愛されることを知らない子供は、愛することばかりに優しさを向け、そして踏みにじられた心は益々臆病になっていく。
継子とすれば、その臆病な心を宇髄と嫁たちが癒してやれるのだから一石二鳥だと宇髄は信じて止まなかった。
「俺、凄く弱いよ?」
自分の強さを微塵も信じていない。何度違うと言っても、善逸は自分が鬼一匹も倒せない弱味噌だと信じてしまっている。そこも継子にすればすぐに間違いだと解いてやることが出来る。宇髄はどこまでも信じて疑っていなかった。
「んなことねぇよ。俺が見込んだ男だ。立派な隊士に育ててやる」
手元に置き、これから化けるであろう一番の成長期を側で見守りたい。心からそう思っている宇髄の言葉に嘘などあるはずがなく、音からもそれを感じ取っている善逸は困惑した目をさらに泳がせる。
「きっと、他にいると思うんだけど」
手をもじもじと膝の上でこねくり回し、どう言えば宇髄が納得してくれるだろうかと甘味屋の赤い布張りの長椅子の上で、善逸は太い眉を下げ唸り声を上げつつか細いひとり言を呟いた。
しかしそのか細い声を宇髄は聞き逃さなかった。善逸程でなくとも音柱であった宇髄の耳は常人よりは優れている。ましてや今は善逸に対して意識を集中させているのだから、聞き逃す筈がない。
「俺がお前がいいと言ってんだぞ」
「ヒッ!」
他の誰かの話しをどうしてするのだと、低くなった宇髄の声に善逸が怯え背筋を伸ばす。
「それともなにか? お前は俺のことが信用できねぇから継子になんぞなりたくねぇっていうのか」
柱と継子には信頼関係は不可避だ。それがなくては厳しい鍛錬も耐え切れないだろうし、なにより呼吸を継承させようというのに信頼がなくては話しにならない。
宇髄はちんくしゃだ、子供だと善逸を揶揄うことをするが、死闘を共にした善逸を信頼している。誰かを守るために刀を振るえる善逸に、自分も守れる技と力を与えてやりたい。そのために宇髄の元に来いと言っている真意が伝わっていないのかと眉を顰めれば、善逸は必死に首を振りそうじゃなくてと否定の言葉を繰り返す。
「そうじゃないけど! そうじゃないけどさ! 俺が弱い事宇髄さんが一番知ってるでしょ? 気を失って毎度誰かに助けられてばかりの人間よ? こんな隊士を継子にしなくても、宇髄さんならもっと他に選びたい放題じゃないのよ! そうだよ!! むしろお嫁さんたちのが強いからね! 俺の弱さ舐めないでいただきたい!!」
「いや、善逸よ。そこ威張ってどうする」
喚き散らす内になぜか逆ギレ状態になった善逸に胸を張られ弱さを主張されてしまい、宇髄は頭を抱えちっとも人の話しを真剣に聞かない子供をどう説得するべきだろうと頭を悩ませる。
「別にお前弱くねぇだろう」
上段の鬼といい勝負してたじゃねぇかと宇髄が遊郭でのことを言えば、記憶にない善逸は嘘は止めろと、嘘の音など拾っていない癖に派手に喚く。
善逸は、耳が良いくせに自分が信じたくない音は否定してしまう。都合のいいように捻じ曲げてしまうから、今まで女に騙され嫌な目に遭ってきたというのに、その癖は今も健在でおそらくこれからもそう易々と治ることはないだろう。
「ほんと、厄介な奴だな」
覚えていないにも程があるだろうと、両足を折ってまで必死に戦った自分を全く知らないと言い張る善逸の記憶力の方に溢した宇髄の溜息交じりの言葉を、自己肯定が低い善逸は間違った方向で受け取ってしまう。
「悪かったですね厄介な奴で!! そうです、そうなんです!! だから他当たってください!!」
ギャーギャーと喚く善逸の耳は、宇髄の音をもうまともに聞くことはできなさそうだ。ようやく継子の話しが出来たというのに、本人がここまで取り乱していては纏まる話も纏まらない。丁度嫁たちへの土産用に頼んでいた団子を店主が持ってきたくれたため、代金を支払った宇髄はその包みを善逸の膝の上に放り投げた。
「あっぶな!」
食べ物を放り投げるなとどうにか落とすことなく受け取った善逸が宇髄を叱れば、善逸の記憶にない共闘で残った右腕が善逸の金髪を掻き混ぜた。
「雛鶴が夕飯用意して待ってる。帰るぞ」
「え?」
まさかの宇髄の言葉に善逸は先程までの剣幕を忘れ、目が乾くだろうにかっぴらいた状態で宇髄を凝視している。
「俺も行くの?」
「お前のために作ってるんだから、行かなくてどうする」
「え? なんで?」
もし継子祝いのための祝い膳ならば断わらなければと顔をこわばらせた善逸の頭が、宇髄の馬鹿力により大きく揺さぶられ、すぐに拗らせる考えが目を回す。
「ちょっ! 宇髄さん、首捥げる! 俺の首捥げちゃうから!!」
止めろと悲鳴を上げる善逸の耳がようやく宇髄の音を拾い、頭の上にある宇髄の手の上に重ねていた両手をそのままに立ち上がった宇髄を見上げた。
「宇髄さん?」
きょとりと目を丸くする善逸の耳は、今まで聞いたことのない優しい音を宇髄から拾っている。そしてその音を昔善逸は師匠である桑島から聞いたことがあった。
「お礼をしたいから連れて来いってずっと嫁たちにせっつかれてたんだよ。俺ばかりお前と会ってるのはズルいとも言われたな」
「お礼?」
あの戦いの最中、善逸は知らず宇髄の嫁を助けている。当然眠っていた善逸はそのことを知らない。ずっとお礼を言いたいと訴えていたのだが、宇髄はなぜか善逸を嫁に会わせることに乗り気ではなく曖昧な返事で誤魔化し続けていた。しかし、とうとう痺れを切らしたまきをが、宇髄が会わせてくれないのならこちらから出向くと強硬手段を取ろうとしたために、連れて帰ると約束をして出てきていた。
「俺なんもしてないよ?」
心当たりが無さ過ぎると不安をいっぱいに称えた瞳は、髪色とはまた違った黄金色をしておりそこに自分が写っていることがなぜだか酷く宇髄には心地よい。
「雛鶴の作る飯は旨いぞ。任務の知らせはまだ来てないなら、藤の家じゃなくてうちに来い」
「でも」
継子の話しを断ったばかりの身で、宇髄の屋敷に行くのは気が引ける。美人のお嫁さんに会いたい気持ちも、料理上手と宇髄が褒めるご飯にも興味はあるが素直に頷くには善逸はこういう部分で素直になれない臆病者だ。
「刀の手入れ、そういやお前ちゃんとやってんのか」
「へ?」
返事が出来ない善逸はいきなりの話題変換について行けず間抜けな声を出し、立ちあがた宇髄の顔をぽかんと見つめる。
「いや、まあそりゃ? 俺も鬼殺隊士ですから、自己流だけどそれなりに」
日輪刀の手入れについては素人ながらに一応善逸も毎日行っている。刀鍛冶の人に比べれば拙い手入れだろうが、大切な品なのだから眉を顰められるような雑な扱いはしていない。
「刀見てやるよ。あと任務の時の悩みとか困っていることがあれば言えばいい。俺も引退したとは言え元柱だ。教えてやれることは他の隊士よりはあるだろう」
「・・・・・・いいの?」
その問い掛けに含まれた言葉の意味を理解したうえで宇髄は頷いてやる。
「聞いたからって継子になれと脅すと思ったか?」
「だって・・・」
宇髄の申し出を断っておきながら、飯を振る舞われ鬼殺隊の元柱という上位の人間に悩みを聞いてもらう。それはあまりにも自分にばかり都合のいい話しだと善逸が押し黙れば、夕陽を浴び赤く染まる金色の髪をひと房宇髄は摘まんだ。
「身体を休められる内に鋭気を養っておくのも仕事の内だ。なんだ、お前が遠慮とか明日は嵐か竜巻か?」
「俺は宇髄さんと違って常識人なの! 遠慮って言葉の意味をちゃんと知ってる人間なの!!」
いつものように宇髄に揶揄われたことでようやく調子を取り戻した善逸は、髪を摘まみ微笑んでいる宇髄の顔面の威力に負けまいと勢いよく噛み付く。そうでもしないと、言葉はらしいのに、それに沿わない宇髄の表情に尻の座りがどうにも悪かったからだ。
「ほんとに行っていいの?」
じゃれ合いは微笑ましいものだが、営業妨害と紙一重と言ったところで、宇髄がこれでも善逸が納得しないなら俵担ぎで攫って行くかと物騒なことを考えていると、上目遣いのお伺いが下から聞こえてくる。
「・・・・・・・・・」
「あの、宇髄さん? やっぱ継子の話し断ったから怒ってるとか? えっと、取りあえず無音とか怖いんでなんか言って貰えるとというか、心臓止めるの怖いんでやめて貰っていいですか!!」
蜂蜜色の瞳には揶揄ったことで浮かべた涙の膜が出来ている。潤んだ瞳で手を胸の前に擦り合わせ見上げられた時、宇髄の心臓がなぜだか酷く跳ねた。それを耳のいい善逸に知られたくなく、慌てて筋肉で止めたのだが、善逸は常人では有り得ない宇髄の行動に軽く引いている。
「お前も心臓くらい止められるようになれ」
「無理だわ! 一生かかっても無理だわ!!」
無茶を言うなと喚いた善逸はいつも通りの顔面崩壊を晒していて、あの高鳴りはなんだったのだろうと喚く口を塞ぐために取りあえず宇髄は拳をお気に入りの黄金色の頭に振り落とした。
それからだ。それから善逸は蝶屋敷と藤の家だけでなく、たまにだが宇髄の屋敷にも顔を出すようになった。もっぱら目当ては嫁とその嫁が作る飯だが、憎まれ口を叩く僅かな中に宇髄に会えたことに喜ぶ気持ちは垣間見える。その時の善逸の笑みを見る度に、宇髄の中であの日の跳ねた心臓と同じ現象は起こっていた。
善逸はお喋りの癖にあまり自分のことを話さない。もっぱら会話の中心は善逸の同期である炭治郎や伊之助、そして恋心を寄せていることを隠そうとしない鬼の少女のことばかり。
嬉しそうに語る善逸には悪いが、時折宇髄は善逸の話しを大人の余裕で聞いてやることが出来ない時がある。理由は分からない。ただ嬉しそうに彼らの話しをする善逸を見ていると無性に腹が立つときがある。そして耳の良い善逸が宇髄の不機嫌さに気が付かないわけがない。楽しい食卓は急に通夜のように静かになり、ぽつりと「ごめんなさい」と項垂れる善逸の謝罪でしらけたものになってしまう。
だが心配はいらない。そんな時には出来た嫁たちが落ち込む善逸を優しく宥め、機嫌を悪くした宇髄の代りに元気づけてくれるからだ。
「天元さまは、善逸くんが構ってくれないから拗ねてるんですよ」
「そうそう。たまに顔を見せたんだからもっと甘えて欲しいのに、さっきから善逸が話すのは友達のことばかりだろう」
「善逸くんが天元さまの名前を呼んで膝の上にでも乗ったら一発で機嫌治りますよ!!」
「おいおい、お前ら」
勝手なことを言ってんじゃねぇと宇髄が窘めるより早く、善逸がそれはそれは汚い高音で悲鳴を上げる。顔は茹でたタコのように真っ赤で、気持ち悪く揺れる身体には骨があるのと疑いたくなる柔軟さだ。
「な、な、な、なんてこと言うんですか! 止めて下さい!! 宇髄さんに限ってそんなことあるわけないじゃないですか!! どうせ俺の話しがつまんないから怒ってんですよ。ごめんなさいね、話題に豊富な男じゃなくて! 酒のつまみになるような面白い話しが出来ない子供でごめんなさいね!!」
ギャーっと喚く善逸に、嫁たちはあらあらと落ち着いたもので、それを向かいで見ている宇髄も相変わらずの取り乱しように先程まで抱えていた機嫌の悪さも吹き飛んでしまう。
「まあ、あれだ。元気そうでなによりだ」
変わらない善逸を見ていると、少しだけ宇髄は救われる。十六のわりに子供臭い所が抜けきらない善逸を見ているだけで、なぜだか宇髄はホッとする。
「・・・・・・元気だけが取り柄なもので」
冷静を取り戻した善逸が、恥ずかし気に視線を落とし消えそうな声で宇髄の名前を呼んだ。
「宇髄さん」
「おう」
盃が空になることに宇髄が気が付く前に、善逸の隣にいた雛鶴がいつの間にやらその盃に酒を注ぐために隣で膝をついていた。
「あの、今日・・・泊まっても良い?」
駄目ならご飯を食べたら出ていくからと付け足す善逸は、決して宇髄の方を見ようとしない。相変わらず臆病な子供だと呆れつつも、それを表にだせばきっと泣きだすだろうからと宇髄は隠して酒を注ぐ雛鶴と顔を見合わせた。
「風呂は」
「沸いてます。善逸くんの浴衣も準備してますから、お二人で入られますか?」
「だとよ、善逸。一緒に風呂入るか」
泊まることを毎回馬鹿みたいに訊ねる善逸は、いつになったら気が付くのかと宇髄はそれも楽しみだった。とっくの昔に嫁たちは善逸を客として考えていない。
膳に並ぶ食事は主である宇髄の好物も酒にあう摘まみも一切考慮されず、善逸が好むものばかり。小鉢の中の海老団子は先日善逸が美味い美味いと大喜びしたために作られたものだ。
浴衣は客用ではなく善逸のためにまきをがあつらえたもの。布団も善逸専用のものを須磨が不器用ながらも綿を詰め直して作った。
そのことに、普段は敏感な善逸はなぜだか気が付く気配がない。自分のために用意された物が当たり前のように存在する。そんなことはあるわけがないと心が拒否しているのだろう。
だからこそ、雛鶴の言葉に気が付くことなく善逸は宇髄と一緒に風呂に入るということだけを拾い上げ、今日何度目か分からない悲鳴を上げた。
「全力で断らせていただきたい!!!!」
ひとりで入ると逃げるように風呂場に駆け込んだ善逸を見送り、縁側に移動した宇髄は残った酒に口を着けている。
「善逸くん、今回の任務は怪我がなかったみたいでよかったですね」
「うちに来るときはそういう時だ。怪我を少しでも負ったらあいつはこねぇからな」
「天元さまと私たちに心配を掛けたくないんでしょうけど、少しだけ寂しいですね」
「しょうがねえ子供だ」
継子になるつもりがなくとも、宇髄は善逸にこの屋敷に帰ってこいとしつこいくらいに善逸に言い聞かせている。最初はただの思い付きのようなものだった。どうせ藤の家に行くのも宇髄の屋敷で次の任務まで待つことも大差はないだろうと思ったからだ。
側にいれば鍛錬も見てやれる。継子という肩書がなくとも相応のことは出来ると悪い知恵も働かせた。
勿論善逸はあの性格だ。宇髄の思惑通りに行くわけがなく、逃げて逃げて鰻と甘味をチラつかせても捕まえることも出来ない時もあった。
根負けをしたのは宇髄だ。それほどに嫌ならば無理にとは言わない。ただ、嫁たちが心配をするからたまは顔を出せと、善逸からすれば卑怯な手段を使わせてもらった。
結局、根負けをしたのは宇髄だが、勝負に負けたのは善逸となるのだろう。五回に一回程度の頻度で宇髄の屋敷に善逸は顔を出すようになった。
勿論、名目は嫁たちの顔を見ることと上手い飯だと言い訳は忘れない。
けれど、その頻度が偶に酷く間隔を開けてしまうときがある。善逸が任務で怪我を負った時だ。重症時に蝶屋敷の世話になることについては宇髄も文句はない。当たり前のことだ。専門家である胡蝶の屋敷に滞在することは正しい判断だ。
だが善逸は軽傷とされるようなかすり傷程度の物でも身体にひとつでもあれば、決して宇髄の屋敷に来ることをしない。その場合は藤の家でその傷が治るまで外さえ出歩かずに宇髄の捜索から逃れようとさえする。
「ここを家だとはまだ思ってくれないんですね」
寂しげな雛鶴の声に宇髄はなにも言えない。
「帰って来いと言っても、未だにあいつはおじゃましますと言うくらいだからな」
「寂しいですね」
「継子になるのを頷いてくれる日は遠そうだ」
手元に置きたいとこれだけ宇髄も嫁たちも願っていると言うのに、肝心の善逸がその願いを信じようとしない。難儀な奴だと酒を空にした宇髄の言葉に、雛鶴は口元を押さえなぜか意外そうな顔をしている。
「あら、天元さまはもしかしてお気づきでないんですか?」
「あ?」
「てっきり、お子様な善逸くんのために遠回しに言ってるのだとばかり思っていたんですけど」
「なんの話しだ」
三人の嫁の中でも頭が一番よく、会話術も長けている雛鶴の話しが全く読めず、短い眉を吊り上げた宇髄に雛鶴は言うべきかと躊躇をしていたが、主の宇髄が話せと無言の圧力を掛ければそれに従わないわけにはいかない。口は重かったが、もう随分と前から嫁たちの中では当たり前となっていることについて打ち明けた。
「私たちはいつ善逸くんが来てくれるのかと毎日話していまして」
「おう、それは俺も考えている」
継子として早くお館様に紹介をしたいと一番願っているのは宇髄なのだから。
「いえ、そうではなくてですね」
「?」
本当に珍しく切れの悪い話し方をする雛鶴に疑問しか沸かない宇髄は、居住まいを正し戸惑っている雛鶴と向き合った。
「あの、天元さま。本当に言ってもよろしいのですか?」
そんなにも言いにくいことがこの話題に関してあるだろうかと、家に迎え入れたい気持ちは同じ筈の嫁たちと自分になんの違いがあるのか分からない宇髄は当たり前だと大きく頷いた。
「善逸くんとの祝言はいつになるのだろうかと」
「・・・・・・は?」
突然の爆弾は、宇髄を黙らせる威力を十分に秘めていた。
「天元さまが善逸くんをお嫁さんとして迎えるとばかり思っていましたので、成長期の善逸くんに合わせた白無垢はあまり前から準備しても無駄になるだろうといつも三人で話してました。あの、まさか、その・・・・・・天元さまに自覚がないとは思わなかったもので」
「まて、まて、まて、まて。ちょっと待て」
「はい」
素直に頷き口を閉じた雛鶴の顔の前に手を突き出した宇髄は、唸り声をあげたった今嫁から投げられた爆弾の処理を心の中で初めている。
「俺がなんだって」
状況確認は大切なことだ。任務でもいつも冷静にそれにあたっていた。情報を分析し事に当たる。得意分野だったではないかと自分に言い聞かせる宇髄に、雛鶴の爆弾は止まらない。
「善逸くんをお嫁さんにするんですよね」
「待て、ちょっと待て。誰がそんなことを言った!」
「言ってはいませんが、見ていればそうだと分かりましたので」
準備をしてきたと言われてしまい、浴衣も布団も、ついでを言えば善逸が泊まる部屋が屋敷の奥にある宇髄の部屋の側なのもそういうことだと言われてしまう。つまり、夜這いがしやすいようにという心遣いだったと真顔で説明をされてしまった。
「あいつは男だぞ!」
「そうですね。今は可愛らしいですが、あと数年もすれば凛々しい青年になりますね」
大人になる善逸を側で見守れるのが嬉しいと、雛鶴は両手を合わせ顔をほころばせる。それについては宇髄も異論はないが、問題はその見守る方の肩書きの違いだ。
「継子として俺は善逸を迎え入れるとお前らに話したよな」
「ええ。けれど、それは外聞的なものだとばかり。善逸くんが恥ずかしさに慣れるまでその呼び方を優先するお考えなのですよね。天元さまは堂々と言い切りたくても、相手の気持ちを優先される優しい方ですから」
話しが噛み合っていないことは分かっているが、こうも噛み合わないものかと頭を抱える宇髄に止めを刺しに雛鶴は特大の爆弾を抱え放り投げた。
「私たちは立場上嫁となっていますが、実際は妹のように可愛がっていただいている家族です。あんな暮しで恋や愛などという感情は育ちませんでしたが、天元さまのおかげで家族の愛情だけは身に染みて理解させていただきました。それは天元さまも同じだったことでしょう。でも善逸くんと出会って、天元さまはようやくそれを知ることが出来たのだと、皆喜んでいるんですよ。立場上四人目の嫁と呼ばれてしまうことだけが残念ですが、善逸くんは天元さまにとって最初で最後の初めてのお嫁さんになる。その準備とお手伝いが出来ることがとても嬉しくて、嬉しくて。いつその日は来るんだろうと、最近では毎日話しているくらいです」
喜びに頬を紅潮させる雛鶴は、まるで少女のようでそんな彼女を見ることはやぶさかではないが、話しの内容だけはどうにも頂けない宇髄は唸り声も忘れ、真顔で聞き返すしかなかった。
「誰が、なんだって?」
善逸が、宇髄のなにになるというのか。それについてのみ、もう一度聞かせてくれと訊ねる宇髄に、嘘偽りなく本心の音を奏でた雛鶴は笑顔で言い切った。
「善逸くんを好いているのでしょう?」
疑問形の癖に断定される経験を、この日宇髄は初めて味わった。
ペタペタペタと、裸足の足が廊下を歩く子供っぽい足音の正体は、顔をそちらに向けなくとも誰だか丸わかりだ。
「宇髄さん、お風呂先にいただきました」
主よりも先に入ってしまったことを律儀に詫びに来た善逸に、雛鶴からの爆弾処理に疲れ果てていた宇髄は無言で盆の上に湯気を立てている湯呑みをふたつ乗せた善逸を見上げた。
「雛鶴さんが酔い覚ましに付き合ってやれって」
「酔っちゃいねぇよ」
「あと機嫌悪そうでもあれは怒ってないから気にするなとも言ってたけど」
なにやったのと呆れた声を発しながら座った善逸は湯呑みをひとつ宇髄の脇に置いた。音を聞けば善逸には宇髄が酔っていないことも怒っていないことも分かるが、確かに見掛け上は雛鶴の言うように機嫌が悪そうには見える。
「ちぃ~とばかし、人間の感情について考えてんだよ」
「大丈夫?」
それが心配しての問い掛けではなく、頭は大丈夫かという方の心配だと気が付いた宇髄は右の視界にわざわざ善逸が置いた湯呑みを見つめた。
「善逸よ」
「なに?」
鬼殺隊の仕事は夜が本番だ。寝間着に身を包み善逸がゆっくりとしているということは、任務を知らせる鎹雀は同じく羽を休めているということだろう。
「最近じゃ嫌がらずに任務行けてるらしいじゃねぇか」
「相変わらず耳が早いね」
湯呑みに入っているのはおそらく葛湯だろう。緑茶は寝しなに飲めば目を覚まさせてしまう。任務のない夜くらいゆっくり寝かせてやりたい嫁の心遣いを、善逸はふぅふぅと息を吹きかけ覚ましつつ飲み込んでいる。
その際、熱さに舌を軽く焼いたのか、赤い舌が小さな口から覗き宇髄の視線を奪った。
「怖くなくなったのか」
目を奪われたことを誤魔化すために訊ねれば、善逸は痛む舌を出したまま宇髄へと視線を向ける。その状態でこっちを向くなと心の中でだけ毒づいたが、善逸の耳はそんな宇髄の音は拾わなかったようだ。
「怖いよ」
「言い切んな」
当たり前だろと真顔で言われ、普段変顔ばかりを見せつける善逸の妙に整った顔になぜか今更気が付いた。
「意外と悪くないのか」
「は?」
思わず心の声が表に出てしまい善逸には会話が繋がらない事に眉を顰められたが、宇髄は無理矢理話の軸を元に戻し話しを続けた。
「前のお前は怖いなら喚き散らしてただろ」
「今だって喚き散らして駄々捏ねて、それで行かなくていいなら行きたくないですし、俺を守ってくれる誰かと一緒に行きたいです」
それでもしなくなったのは、単純にそうして甘えてばかりはいられないことを善逸が知ってしまったという簡単な理由だ。
「俺はね、宇髄さん。自分が弱いことを良く知ってる。でもそんな俺でも鬼と戦える日輪刀があって、技も一個だけだけど使えるんだ。普通の人はそのどちらも持ってないでしょ」
鬼の首を狩らなければ鬼は死なない。陽が出るまで逃げ延びるなんて芸当、奇跡でも起こらなければ目を着けられた人間にはやってこない。
「俺は弱いのにさ、それでもなんでか今も生きてて任務は来る。本当は行きたくなんてないし、怖さだってちっともなくならないけど、俺より弱い人いるの分かっちゃったからさ。だったら行かないとじいちゃんに殴られるよ」
「桑島さんか」
元鳴柱。善逸の育手のことなら宇髄も知っている。雷の呼吸から派生したのが音の呼吸であり、一度だけ宇髄は桑島に会いに行ったことがあるからだ。それを善逸は知らないため、どうして自分の師匠の名前を知っているのだろうと目を大きく見開き驚いている。
「元柱だ。知らない人間はいねぇよ」
別に隠すことではないのだが、なぜか今は素直にそれを口に出すことが出来ず誤魔化してしまった宇髄の音を、善逸の耳は辛うじて拾わないでいてくれたようだ。こんな時に忌み嫌った忍びの習性が役に立つことが少々腹正しかった。
「そっか、じいちゃんそんな有名な人だったんだ。ただの頑固ジジイじゃなかったんだ」
宇髄から師の名前が出たこと、そしてそこに敬う響きがあったことが嬉しいのだろう。善逸は眉をへにゃりと下げまるで自分が褒められたかのように笑っている。
「あのね、宇髄さん。継子の話しなんだけどね」
普段逃げてばかりの善逸だが、今日の宇髄となら話が出来ると思ったらしく、初めて自分からその話題に触れた。
「ようやく頷く気になったか」
「ん~」
違うと分かっているくせに、善逸からの言葉を少しでも引き延ばそうと宇髄が煙に巻く体制に入ったことを善逸は許してくれなかった。
「俺は宇髄さんの後継者にはなれない。ごめんなさい」
キッパリと、冗談ぽく言うのでもなく、卑屈になるのでもなく、真摯な眼差しで善逸は板の上で正座をし頭を下げた。
「理由を聞かせてくれないか」
ここまでされてしまえば、宇髄も言葉を茶化せる筈がない。ただ理由くらいは聞かせて欲しいと中庭へと投げ出していた足を引っ込め、背筋を伸ばし宇髄と向き合っている善逸の方へ身体を向けた。
「俺ね、こんなどうしようもない弟子だし、じいちゃんが教えてくれた技も結局一個しか使えるようにならなかったけど、それでも言いたいんだ」
「・・・・・・・・・」
「俺の師匠は元鳴柱、桑島慈悟郎だって。胸張って言える人間に、いつかなりたいんだよ」
そう泣きそうな顔で笑った善逸に、宇髄はこれ以上は無理だなと深く息を吐き切る。
「そうか」
「ごめんね。こんな俺を継子にしたいって言ってくれたの本当は嬉しかったよ。宇髄さんもお嫁さんたちも、いつも俺のこと家に向かえてくれる時優しい音がしたから。じいちゃんと過ごした暮しをちょっと思い出して懐かしくもなった。このまま甘えたくなりそうになることもあったんだ」
「甘えりゃいいじゃねぇか」
別にそれが悪い事だと誰も責めることはない。宇髄が望んだことだ。他の誰になにを言われようと、善逸が覚悟を決め来てくれたなら全力で守ってやった。
「駄目だよ。だって、俺は甘えたら弱くなるもん。逃げてもいいけど諦めるなってじいちゃんに言われた事すら出来ない人間にはなりたくない」
「俺らの存在は、お前をそんな駄目にするのか?」
いつになく情けない声だったのだろう。善逸は驚きで目を見開き、何度も瞬きを繰り返すと顎に手をやり小首を傾げた。
「宇髄さん、拗ねてるの?」
「拗ねちゃいねぇよ」
「いや、だってその音って」
「大事に育てて行こうと思ってた奴に、んな風に言われたら俺だって少しは凹むんだよ」
誤魔化すことなく認められてしまい、善逸の驚きは加速する一方だ。
「うそ」
「嘘言ってどうする。言っとくけどな、俺から継子にしようと口説いたのはお前が初めてだからな」
「口説くって、宇髄さんが言うとなんか洒落にならないから止めて欲しいんだけど」
背を反らせる善逸とは対照的に、宇髄は膝の上に肘を付き若干の前のめりになってしまう。
「まあ、でも分かった。お前がそこまで言うならもう言わねぇよ」
「うん、ごめんね」
「馬鹿か。そこはありがとうだろう」
「そっか。うん。宇髄さん、俺を継子にしたいって言ってくれてありがとう」
はにかむ善逸の髪が、月明かりに照らされサラリと揺れる。目の前にある満月が笑う様に見惚れた宇髄の心がコトリと音を立て、その音に善逸は首を傾げた。
「宇髄さん?」
宇髄の中から聞こえた音を善逸は良く知っている筈だ。これはなにだろうかと、音の正体に気付きたいような、気が付いてはいけないようなそんな思いに考えを巡らせている間に、宇髄の右手が伸びてきた。
「ああ、全く出来た嫁には叶わねぇな」
まだ幼さを残すまろい頬。柔らかな頬を撫でれば、突然の宇髄の行動に驚き一瞬身を固くした善逸も、いつもの触れ合いの一種だろうとすぐに緊張を解き大人しくなる。
頬を抓ればきっと変顔をし叫び散らすことだろう。だが、今日の宇髄はそんな野暮なことをしてこの時間を手放す気はなかった。
「俺より先に気が付いて、地固めも万全と来てる。ここで俺が動かなきゃ情けなさ過ぎるってもんだよな」
「なに言ってんの宇髄さん?」
さっきから話が全く見えないと眉を顰める善逸は、自分がどういう立場でこの屋敷に毎度出迎えられていたか知れば叫び声を上げ逃げ出すことだろう。美人な嫁たちに鼻の下を伸ばしていた善逸の方が、実は本当の役目を担う新妻として世話を焼かれていたのだから。
喉の奥で笑いをかみ殺した宇髄の手が、善逸の腕を引っ張り自分の膝の上へと上半身を引き寄せる。
「うわ!」
突然のことに成すがまま抱き締められた善逸を、体格が勝る宇髄が囲い込むように顔を覗き込んだ。
「な、なに!」
やはり酔っているのかと、暴挙を責めるために振り上げようとした左手は、宇髄の唯一残った右手が楽々と塞ぐ。右手で宇髄の胸を押し返す善逸の力など赤子のようなもので、引退しても鍛えている宇髄の身体はビクともしない。
「なあ、善逸よ」
「ひっ!?」
耳がゾワリと粟立った。寒気とは違うなにかが背筋を走り、誰かと褥を共にしたことのない善逸は、鼓膜が犯されたと捕らえられていない右手で耳を塞いだ。
「継子の話しは分かった。もうしねぇよ。俺も男だ二言はねぇ」
「そ、そうですか」
それは良かった。ではおやすみなさいと今すぐ立ち去りたいというのに、善逸はなぜだか宇髄に右手一本で膝を跨ぐように抱きかかえ直されてしまい、誰かに見られたら人生終わるという状態で宇髄と見つめ合っている。
「その代わり、これからは別のことでお前を口説くことにする」
「その言い方は誤解を生むから止めた方がいいと思うわけで!!!」
「別に間違っちゃいねぇからいいんだよ。俺がお前が口説くんだからな」
「なに! ちょっと、人の話し聞いてというか、宇髄さん目が怖い!! すげぇ怖い!! 人食った鬼ですかってくらい、燃えてますよ! 大丈夫なの!?」
柘榴が熟れ弾けた・・・善逸は、見慣れた筈の宇髄の目の色が真っ赤に燃え上がる様を間近で見せつけられてしまう。
「善逸」
「はいぃ!?」
防御できない左の耳元で、宇髄が腹の奥が痺れるような声で名前を呼ぶ。素っ頓狂な声を上げた善逸の左手が解放され、すぐさま耳を塞ごうとした善逸の顎が、宇髄の右手に攫われる。
「嫁にこい。言っとくが、こっちは拒否権無しの口説きだ」
覚悟しろと、呆けた善逸を置いてけぼりに唇がほんのり温かくなったと思えば、離れる間際宇髄の肉厚の舌にペロリと舐められた。
「!?」
「こりゃ、手付だ」
「!!!!!!!!!!!!!」
声もなく叫んだ善逸の顔がボンっと一瞬で真っ赤になり、それを見た宇髄は胸に抱えたあのもやもやが晴れる清々しさに笑いが止まらない。
「なるほど、これが恋ってやつか」
「アンタなぁ!!!!!!!」
カラカラと笑う宇髄の胸を連打する善逸を馬鹿力で抱き締めた宇髄の胸を満たすのは、温かく柔らかな感情。三人の嫁たちを想う気持ちとはまた別の温もりが満ちていく。これが恋かと、初めて知る優しい疼きに宇髄は善逸の首筋に顔を埋め笑い声を上げた。
「宇髄さん?」
大声で責め立てていた善逸だったが、宇髄が自分の首元で泣いているのかと錯覚する笑い方をするものだから、つい心配になりそっと背中に腕を回してしまう。
「大丈夫?」
なにか辛いことでもあったのかと、人の痛みに敏感な善逸だからこその優しさに、宇髄の胸を満たす疼きは更に大きく甘く成長をしていく。
一度自覚をしてしまえばそれは坂を転がるよりも早く成長を遂げることを宇髄は身をもって知る。
「好きだ、善逸。俺のもんになれ」
「・・・・・・」
「お前を俺にくれたら、俺もお前にやるよ」
「・・・・・・馬鹿じゃないの」
憎まれ口を叩く善逸だったが、それでも先程のように叫ぶことはなく首筋に顔を埋め続ける宇髄の背を幼子をあやすように叩き続ける。
「ほんと、馬鹿だよ」
雲に一瞬隠れた月が再び顔を出したとき、畳に伸びる影はまだ隙間なく抱き合っていた。
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